1. 父親「ワタル」という異物
私の父の名は、中村亘(ワタル)という。
これは実名だ。
父が家を出て行った劇的な「あの日」など存在しない。 なぜなら、彼は元々、私の生活の中に存在していなかったからだ。
稀に彼が家にいる時、それは私にとって安らぎではなく、緊張と不快の種だった。
学校から帰ると、彼がリビングで寝転がってテレビを見ている。
その光景を見るだけで居心地の悪さを感じた。
たまに車で出かけることがあっても、私は車酔いをして吐き、叱られた。
牛乳をこぼして、叱られた。
叱られた記憶しかない。
私にとって「中村」及び「ワタル」とは、保護者ではなく、生活空間に時折現れる、不機嫌で厄介な異物でしかなかった。
あるとき、私はグリコを買いたくて、母にお小遣いをねだりにいった。父と母がこたつに座っていて、母は泣きながら鼻水だらけの顔で、私に50円を渡した。私は駄菓子屋に行く道中、父親に対して、震えるほどの怒りを感じた。父と母の間で何があったのかなんて調べようとも思わないが、私は父が「苦手」なだけではなく「嫌い」だと、しっかり認識した出来事だった。
父の父から受け継いだ財産を使い切り、多額な借金を残して、2号さんの元へ転がり込んだ「ワタル」を、近所の人はどう評価していいのか、悩んだはずだ。
「悪い人ではないんだけどね」という前置詞をつけて・・・どうしようもないダメ人間という人もいれば、案外、気さくで愛想は良かった、しかし気が短く喧嘩っ早かったなど、評する人もいた。いずれにしても、単にいい人ではすまないのは仕方がないだろう。
現代であれば「発達障がい」という診断も可能だったろう。しかし、おそらく父は、自身の性格で「困ってはいなかった」と思われる。
父、ワタルは、殆ど家にいなかった。
小5の時に母から離婚を切り出された際、そこにあった私の感情は「悲愴感」ではなく、「安堵」と「希望」だった。 「苗字が変わる」 その宣告を、私たち兄弟3人は諸手を挙げて歓迎した。母の性は、私が大好きな祖父の姓であり、 私は喜んで「旧姓」を捨て、自ら望んで「母の戸籍」に入った。
しかし当時、離婚は今ほど当たり前ではなく、苗字が変わる=離婚家庭=母子家庭=非定型な家族に分類されるようだった。
学校内での私のアイデンティティは爆下がりで、学校カーストの最下位に落ちていったのは、肌感覚で判った。
それでも父の性の抹消は、悲劇的な損失ではなく、生きていく上での前向きな廃棄だった。
少なくとも、この時点では。
2. 登校拒否ー不登校からの離脱ーパンク・ロック
母の旧姓という新しい殻を手に入れたものの、私は社会的な「定形(普通)」には馴染めなかった。小学生のころから病弱で休みがちだった私は、学校のシステムに馴染むことが出来ず、 中学1年の夏休み明けからは完全な不登校となった。
ひきこもりだった私の心の拠り所は、洋楽だった。
部屋に籠もり、サイモン&ガーファンクルやQUEENを聴いた。 だが、私の魂を決定的に揺さぶり、現状打破の象徴となったのはボブ・ディランだった。
彼がアコースティック・ギターを置き、エレクトリックに持ち替えた変貌期。 フォーク界のプリンスが、過去のファンから裏切り者と罵られながらも自分の信じた世界感にある、ロックを強引に貫き通した姿。
それは「元祖パンク・ロック」であり、既存の期待や枠組みを破壊する力の象徴だった。
3. 「red3」の構築
中学を殆ど投稿せずに過ごした私は、校長の恩情?で卒業する。
そういうシステムらしい。
卒業の前提は、進学の医師があるかどうかだった。
私は定時制高校に進んだ。
定時制高校は、気楽だった。
毎朝ゆっくり起きて、夕方5時から登校する。
同級生は、入試に失敗した者や、中卒の社会人だ。
私は何もしなくても成績はトップだった。
ここから私の中で、歪んだ自己肯定感が育ち始めた。
最初のうちは日中ふらふらして過ごしていたが、学校の先輩の紹介で、外科の開業医の元で、職員として働いた。
同年代の学生が教室で教科書を開いている時間に、私は労働し、社会の現実を垣間見ていた。
最初の給料で買ったのは、レスポール・カスタムだった。
フォークギター(優しさ)から、レスポール(歪み・衝動)へ。 それは私が、ボブ・ディランの変貌をなぞるように、自分自身の武装を開始した瞬間だった。
私の音楽の原点はパンク・ロックだ。
既存のシステムに迎合せず、DIY(Do It Yourself)で自分の道を作る。
小児麻痺のイアン・デューリーやゲイのトム・ロビンソン、中学生の頃、内省的なサウンド・オブ・サイレンスを愛していた少年は、マイノリティに光を当てる「パワーインザダークネス」に変わっていった。
後に私が直面することになる「インフォーマル・ケア(制度外の養育)」という荒野を生き抜くための精神的基盤(red3)は、この時期、労働と轟音の中で形成されたのかもしれなかった。
私は高校を卒業し、就職先の医師からは放射線技師か検査技師になることを勧められたが、東京のデザイン専門学校に進学することを告げ、田舎からの脱出を図った。
私に怖いものはなかった。
しかし、この時点で、私に欠けていたものがある。
父性だ・・・「ワタル」の否定から始まった基盤づくりは、自らが子育てに関わる際に、大幅な改修工事が必要となると、この時点では考えついてもいなかった。
