大学のカリキュラムだけでは飽き足らず、私は大学の図書室に足を運び、関連する文献を漁った。
発達心理学、家族心理学、犯罪心理学。
そこで人間という生物の根本的なメカニズムに触れる。
オオカミに育てられた姉妹(アマラとカマラ)の事例は、発達における「臨界期」の残酷さを突きつけた。 ハリー・ハーロウのアカゲザルの代理母実験(針金の母と布の母)は、愛着形成において「授乳(生理的欲求の充足)」よりも「接触の快適さ(スキンシップ)」がいかに重要かを証明していた。
比較行動科学の視点から、ボウルビィの「乳幼児の精神衛生」を読み解くことで、母性剥奪(マターナル・デプリベーション)がもたらす影響を、感情論ではなく科学的予見として理解することができた。
また、知覚心理学や認知科学の領域にも踏み込んだ。
「プレグナンツの法則(簡潔さの法則)」。
人間は複雑な図形や曖昧な刺激を、できるだけ単純で安定した形(良い形態)として知覚しようとする傾向がある。
これは家族という集団を見る目にも適用されると、私は考えた。
社会は私たちのような複雑な関係性を、「家族」という単純な枠組みに当てはめて処理しようとするが、実態はそんなに単純ではない。
そのズレが苦しみを生む。
「ハロー効果」。
ある対象を評価する際、顕著な特徴に引きずられて他の評価も歪められる現象。
「継母」というだけで、その人の全てが冷酷であるかのように見られたり、逆に「親切な人」という印象だけで養育の不手際が見過ごされたりする。
これらの「似て非なる法則」を一つ一つ検証し、自分たちの置かれた状況に当てはめていく作業は、絡まった糸を解くような感覚だ。
現象には理由があり、法則がある。 私が直面している困難は、不可解な呪いではなく、説明可能な科学的現象だ。
そして、社会学による自己位置の確認。
なぜ、私たちはこんなにも生きづらいのか。
児童相談所への電話で感じたあの疎外感の正体は何なのか。
社会学は、それを「制度的家族主義」や「スティグマ(社会的烙印)」という視点で説明する。
社会は「血縁に基づいた両親と子供」という標準世帯(SNAF: Standard North American Family)を前提に設計されている。
法制度、学校行事、近隣の視線。すべてがその「標準」を正解とし、そこから逸脱するものを「異常」あるいは「要支援」としてラベリングする。
要支援・・・これは虐待の疑いが持たれた時に限られ、予防的支援は受けられないのだが、逆にいえば、最初から虐待の疑いだけがラベリングされていて、支援という名の「家庭分離」をいつするべきかだけ、測られている。
私たちは単に運が悪かったのではない。
社会構造的に「見えない存在」として処理されていたのだ。
私が感じていた「OUTLAW」としての感覚は、被害妄想ではなく、社会学的に証明可能な事実だった。
これらの学習の集大成として、私は卒業論文に取り組んだ。
テーマは「中途養育者の困難について」。
個人的な感情を、学術的な言葉で再構築し、客観的な「論」として昇華させる試みだ。
この論文の内容は、後に私が運営に関わることになる「中途養育者サポートネット」において、形を変えて、しかしその精神を受け継いで掲載されることになる。
学ぶことは、私にとって癒やしではなく、生存のための解析作業だった。
