1. 結婚とは異なる家族的文化の合流である

妻とは、デザイン専門学校の同級生として出会った。

1982年、当時学生だった妻は渋谷公園通りの、ミスタードーナツでバイトをしていた。通りの向こう側で1000円のサングラスを売っていた店長はミスドの常連で、妻にアルバイトを探している旨を話した。
妻はアルバイトを探していた私を紹介したのである。
私はバイトから正職員になり、卒業まで4か月程度を残して学校を中退した。

元々、デザイナーになろうと思ってた訳ではなかった。

ミュージシャンになろうと思っていたのだ。

機会があれば・・・

妻は婦人靴メーカーに就職した。
彼女は頻繁に公園通りにやってきて、その後、数年の付き合いを経て我々は結婚することになる。

妻の実家は東京にほど近い千葉で、職種とすれば、建築防水業、義父は職人を抱える会社の社長だった。
彼女は社長令嬢ということになる。
私の実家も自営業だったが、彼女の家の堅実な規律とは少し違う。
職種を分類するとすれば、実家の「街中華」と「バー」の経営は、「水商売」と呼ばれるものだ。
私の生家の文化は、臨機応変に現場で起きている事に素早く対応し、行動に移せるダイナミックな現実主義だった。
結婚する前から、家族的な文化の違いは判ってはいたが、それを問題だとはおもっていなかったし、結婚後の生活に影響を及ぼすとは全く考えもつかなかった。
結婚生活は高田馬場のアパートから始まり、やがて妻の実家に近い亀有へ移り、義父が亡くなってしまった事がきっかけで、最終的に義母との同居に至る。

私は少しづつ、義弟のことやアパートの件など、妻の家系の事情にも自然と関わるようになっていった。

2. 虚構の生活から、靴の現場へ

結婚前、妻に「ミュージシャンになる」と言ったことがある。
彼女は泣いて「ふざけてる」と私の想いを否定した。

一番身近な観客に否定されたことで、私は音楽活動を水面下に潜らせた。
諦めたわけではなく機会を窺っていただけだが、生活の波に追われ、結果的にそれは後回しになった。

私は妻の家族に気に入られるために、素性が怪しく見えるであろうサングラス売りを辞め、保険会社の営業に就いた。
しかしそこも班の立て直しに貢献したかもしれないが、自身の成績は芳しくなく、生活が成り立たないため2年で辞めた。
すぐに、音楽関係の職場からも内定を貰ったが、土日が仕事だったため、その誘いを断り、社会保険関連の出版社に転職した。

そこでの10年は、平穏というより「虚構」だった。

妻の父(義父)が気に入るような安定した職業と見えるように就いた職業であったといっても過言ではなく、機会を見計らって仕事を変えようと思っていた。しかし、義父がなくなり、私たちは残された義母と同居するようになると、様々な家庭事情に翻弄され始めた。

毎日、スーツを着て、仕事をさぼり、時間を潰す日々。
その空虚な感覚は、今でも時折、悪夢として蘇る。
空白の10年・・・一般的に、サラリーマンの生活は、充実しているのか私にはよく判らないが、入社から退職までの、多くのステレオタイプ的サラリーマン像は、空白は10年ではなく、40年なのかもしれないが、私にとっては10年でも長かった。

そんな中、妻に誘われて通い始めた靴作りの教室は楽しかった。
「オーダー靴を作る仕事を起業したらどうだろう?」 そう考えた私は出版社を辞めてしまう。
平穏を望む妻にはまた迷惑をかける形にはなったが、妻の仕事先の紹介で、婦人靴の底付け工として、汚れ仕事の現場の中に入っていった。

今の自営業(ベビーシューズ)に繋がる道は、ここから始まっている。

3. 雛子の誕生

子どもについては、不妊治療の末に、最初の子たちを早産で亡くしている。

そこから気持ちを上げていくのには数年を要しているが、義弟の同居や、色々あって私たちは再度、東京に引っ越してくる事になる。
その後も慎重に、子どもを授かるために妻は治療を続け、ようやく生まれた長女には「雛子(ヒナコ)(仮名)」と名前をつけた。
待望の子であり、私にとってはかけがえのない存在だった。
しかし、私の子育ての根底にあるのは、それは親子心中も辞さないような「情念」の愛でも、 儒教的・家父長制的な家庭観でもなく、百姓や町人が互助的に社会を作る「ネットワーク的な社会観」だ。

だからこそ、雛子に対しても「個々の特性に見合った、ダイナミックかつ現実的な養育」を心がけた。
私と同じ、喘息の遺伝子を持っていたため、プールに通わせ、身体は丈夫になっていき、私の母同様に足の速い、リレーの選手になっていった。空手の大会で優勝し、柔道部の部長になり、結果的に雛子は自己肯定感の高い人間に成長したと思う。いい悪いの判断をするのは正しくないとは思うが、彼女の養育に後悔はなかった。

4. 平穏に思える一瞬~想定された運命

私の人生に「順調」な時期などなかった。
予測不能な現実に対し、流れに身を任せる。
人によっては、いい加減なやつ、と捉えるだろう。
しかし、私は現実に押し潰されるか、精神が分裂してしまうより、いい加減な生き方のほうがマシだと思っていた。ハンドルネームの由来となった「なりゆき」や、座右の銘「ま、いっか!」は、私の生存戦略そのものだった。

2003年の夏、その「なりゆき人生」の果てに、妻の弟の子どもたちがやってくる。

私の持っていた「ネットワーク的な社会観」と「臨機応変でその場しのぎの養育感」。

実際に、子どもたちを引き取ることになる事は、全く想定していなかった訳ではなかった。

ただ。そういう事を考える事は、あまりいい事だとは思えなかっただけだ。

その時にはなんとかなる・・・私のいつもの悪い癖。

それが、傷ついた子どもたちの中途養育では、そんなに簡単にすまないことを思い知らされることになる訳なのだが、この時の私はまだ、そのような心配は全く思いついてもいなかった。