指摘「何が起きていたか?」

今回の演習では対人コミュニケーション論において扱った様々な理論や、その他の授業でも扱ったいくつかの理論や現象を、ゲームやディスカッション、課題などを通じて体験的に学習した。

自分自身のコミュニケーションスキル、対人スキルがどのように働いているか、あるいはどのような場面でどのように影響を受けるのか、自己認知、対人における共感において、個人、集団での役割認識、社会的スキーマ等について学んだ。

それぞれの課題は大変意義深く感じたが、最終レポートではそれら様々な学習を振り返り、私が個人的に最も印象的に残った「視線」の課題を中心に取り上げようと思う。

演習の中で私は3人のグループに所属し、他の参加者とは異なる形、観察者の役割を置いたグループに振り分けられた。

ポジティブな感情エピソードを視線を伴わず表出する場面では私は観察者として参加した。

次には「悲しい話を視線を逸らさず」にする話し手の役回りとして参加した。

また、両エピソード共、同じ参加者が聞き手を担当した。

先ず最初の「楽しい話題を視線を逸らす」エピソードの表出場面を観察した。

その際、話者は淡々とポジティブなエピソードを語り、聞き手は相槌や言い換えなどで積極的に係り、話を聞漏らさないよう話者に顔を近づけ前傾して話者と係っていたように見えた。

しかし、むしろ表情は固く、共感というよりはむしろ任務を全うするべく努力しているようにも感じられた。

次の「悲しい話題を視線を逸らさず」語る場面において、私は目を逸らさずに任務を遂行することに戸惑いを覚えたが、その困惑は聞き手の表情からも感じとれた。

そしてその困惑を超えて目を見ながら悲しい話をするという任務を遂行すると、悲しみの感情は聞き手の表情にも浮かび、その表情を見た話し手(私)はさらに悲しみが倍増し、これが視線を合わせている間中、相互に繰り返されたのであった。

そして最終的にはその悲しみに耐え切れず、時間内まで視線を合わせることを自ら断念し、目を逸らしたのである。 


分析「なぜ起きたか?」


 これはマルチチャンネルを駆使してコミュニケーションを取った方がより感情移入が強く、特に「視線」というものがとりわけ印象形成において協力に作用するということを検証するために行われた演習課題である。

本来、ポジティブなメッセージは視線を合わせて行われ、ネガティブなメッセージは視線をそらして行われることが多いという事実の検証ともなったように思う。

ただ、ここではそれ以外にも、いくつかの疑問が生じたのでそれについて考えてみようと思う。

一つには私自身が感じた心象に基づいている。

それは「ネガティブな事象に対しマルチチャンネルを駆使してコミュニケーションを取った場合、ポジティブな事象以上に共感性が高まる場合もあるのではないか」ということである。

そこから「何故、一般にネガティブな事象はコミュニケーションにおいて消極的なのか」また「そこにある種の不安なものを感じるとすればそれは何故だろうか」という疑問も生じてくる。

「よりネガティブな感情が増幅するから」というだけではないだろう。

私が感じたのはむしろ聞き手がネガティブな話題に共感してくれたことに対する「感動」に近い感情であり、その聞き手の表情に表れた感情が、相互理解に繋がったような、とても救われたような気持ちになったのである。

聞き手との距離は近くなり、そのエピソードを共有することで、親近感が増したとも感じた。

つまり、結果的に私自身は決して「ネガティブ」になった訳ではなく、むしろネガティブな話題を共有したことにより、「ポジティブ」になったような気がしている。

それなのに何故、「ネガティブな事象に係る感情移入は危険(不安)なのだろうか。

先ず、私はいわゆる精神分析における「転移」および「逆転移」のメカニズムが起こったのではないだろうかと考えた。

これらは治療の妨げになるだけでなく、治療者にとっても精神的不安定を醸し出す可能性があり、注意が必要である部分であったはずである。

私が不安になった理由も、この現象を学んでいたためと推測出来るだろう。

しかしそれだけではないように思う。

共感性に係る概念を深く理解するためには更なる考察が必要かもしれない。

元々、私自身の自己概念の中に、本来であれば楽しい感情に関しては相手に受け入れて貰うために様々な非言語的チャンネルを駆使し、共有する「べき」ものというステレオタイプ的概念があったように思われる。

また、ポジティブな話題の共感に対しては一般的に人は意欲的にコミュニケーションを取ろうと努力するものであり、また聞き手も意欲的に共有しやすいというステレオタイプ的概念についての信念(確証バイアス)を持っていて、それらは既に特定のスキルを形成していると考えていた。

逆説的に、悲しい話題を共有することに対しては消極的である可能性も示唆しているとも思われるが、それだけでは「何故ネガティブな話題は社会的承認を得にくいか」の説明にはならないだろう。

これら疑問に関する手がかりとして、課題終了後に聞き手で参加された方との会話の中で、問題解明に向けての一つのヒントを頂戴したのでそれをここで紹介したい。

それは聞き手の方自身が、私が話した悲しいエピソードと類似した経験を過去にされていたという情報である。

私が話したエピソードは、誰もが経験するようなものではなく、より特定された事象といえるものであり、経験の有無で、共感の結果も違っていたかもしれないものであった。

そこで私はその事象を「希少な経験の共有」として考えた。

私は「悲しみの共感はある種の危険なものを感じた」というようなことを書いたが、先ず、この共感の前提条件である「悲しみの事象」は自らの経験に基づいた特定スキルであるといえよう。

他者と共有されない部分において個々が社会的承認を得ないままにラベリングし、個々の心の中においてのみ保持し続けている訳である。

他者と共有されることがないという意味において、ステレオタイプ化することが非常に困難な事象であり、社会的に認知されていない時点で個人にとっては手抜きの許されない、ストレスフルな状態のまま、自己概念として保持しつづけている事象といえるだろう。

ストレスのかかる概念であるという時点において、共感された際にはより感情の揺れ幅は大きくなる可能性は高いだろう。

そして、その感情の大きさ自体が(その事象が実際にはステレオタイプ化されていないのにも係らず)確証バイアスとして捉えようとする「手助け効果」のようなものを生じるのではないか。

ポジティブな事象では自ら積極的に相互交換作業は行われ、印象形成に関しても社会的規範の影響を受けやすいと思われるが、ネガティブな事象は相互交換が行われない分だけ、一度印象形成されたらそれが修正される機会も少ないだろう。

それゆえ「ネガティブな共感」は「ポジティブな共感」よりも刷り込み効果が高いと推定されること、バイアスとしては変更を迫られる機会も少なく、より強く保持される可能性も高いだろう。

しかしそれは少数の共感であり続けることから、ステレオタイプ化されていない現実もあるのに、信念はより強固に刷り込まれるといえるだろう。

つまり「ハロー効果」はポジティブな事象より高い可能性があるといえるのではないか。

これがより相互共感性が高まったという認識と共に不安も生じる原因であると考えられる。  

仮説「日常場面ではどのようなことに類似しているか?その時、どうするか?」

 「マイノリティ」と称される集団がある。

いわゆる差別的・格差的見地から形成される集団といっても良いかもしれない。

その集団が形成される要因としては、良い悪いはともかく、社会的見地から「ネガティブ」と称される事象が基礎となっている場合が多いように思う。

そのような集団内においては自ら所属意識を強めるための、その集団内でのみ通用する「秘密」を保持する(もしくはそのように認識されている)傾向があるようにも思われる。

そして、それらはしばしば儀礼的なものとしてその外集団からは認知されていて、その認知ゆえ「共感性への障壁」となっているようにも感じる。

何故そうなってしまうのだろう。

この起源として、「ネガティブな共感性」が当てはまりはしないだろうか。

「ネガティブな事象が表出した際のハロー効果はより高い」と仮定した訳だが、そのマイノリティ集団内で認知のバイアスが生じやすいとすれば、その集団内においては対立も起こりやすいのではないだろうか。

これらの疑問を検証する事例として、私自身が係っている部分で、「継母」というラベリングに属するセルフヘルプグループを取り上げてみたい。

このグループは管理者の承認がないと入会出来ない、一般は閲覧も出来ない「完全に閉じた」インターネット上のSNSサイトである。

一般的なステレオタイプによる親子関係ではタブーとされる、血の通わない子育てに係る様々な悩みや思いを共有することが可能な安全基地の一つとして、当事者にとってはとても貴重な存在であろうかと思われる。

しかしその場において、個人の悩みは全て共有されうる訳ではないし、問題解決に向けて思考が集結するわけでもない。

どちらかといえば「静かな争い」が常に繰り広げられているといってもいい。

そこでは常にネガティブな事象(例えば継子を愛せない悩みなど)に関する意見の交換が行われている。

それらのネガティブな事象に関して、人によってはその事象に触れることが苦痛を伴う場合もあるため、対立も少なからず存在している。

元々が社会的ラベリング(ここでは継母という立場)が同一なだけで、個人的・社会的な役回り、「血の繋がらない子育て」に係る問題意識、「継子」の生理的、発達的な課題、あるいは自らが子育てに係る以前の生育に係る「環境的」問題も、育児に係るスキルも個々によってまちまちな集団である。

元々この集団に係る共通点は「社会的認知」もしくは「社会的疎外」に関する問題である。

しかし、そこには本来の社会的問題以外の、閉じたグループ故の「自己に係るハロー効果」とでもいうべく概念が大きく存在しているが故の争いが常にあると考えられる。

それは本来「集団としての共通項」以上の期待値を個々の要因が持っている所以であり「ポジティブな意識」へ向かうベクトルとも思える。

自己の安定を優先するためであり、それは当然といえば当然なのであるが、それゆえに一部の人が抱えるネガティブな事象は共有されず、批判の対象となるのである。

社会的マイノリティ故の確証の不安定さが残っているから、その都度確認作業が行われ、その度にその歪みは表出され、結果的に個々の認知の衝突を起こすともいえるだろう。

しかし一方で、少数であっても共感が得られた事象に関しては、その当事者同士が持つネガティブな事象は妄想ではなく信念に変換される。(実際には同じ事象を共有している訳ではないとしても)

一つの信念はより強固な関係性を形成するともいえるし、また衝突の元を形成するとも言えるだろう。

いずれにせよ集団内でコンセンサスが得られず衝突が起こるのは集団形成要因一人一人の自尊心であろうから、それらの堅い関係性の基盤となる一つ一つの事象に対して尊重しつつ、個々の認知の歪みを確認し、衝突を避け、社会的に適応させていくことは、とても重要なことと考える。

だとすれば、このようなネガティブな集団属性内の関係性においてアサーションを活用し、相互理解を促進することは、非常に大事ことであるといえるだろう。

ネガティブであるが故の消極性は、究極に困難な場面を迎えるまでは中々超えられない課題であるのかもしれない。自己アイデンティティが崩壊しないために生理的に備わっている、自尊心のバリケードのように考えれば防御意識の必要性は理解できる。

一度歪んで形成された認知の集合体を矯正するのは難しい作業だと思う。

しかしそこに介入出来るのはやはり当事者である人間だけだろう。

だからこそ、マイノリティの当事者が自ら正しいスキルを磨き、専門的支援者として当事者間の事例に介入出来るようになることが重要なのであろうし、また社会的関わりにおいては、自らが率先して、アドボカシー活動を行っていき、社会的認知に繋げていくことがより一層、大事なことであると思う。