海未さんこんばんは。

昨日は書きかけたまま公開してしまったので、内容とタイトルの関連性が全然判らなかったと思います。

昨日の日記に追記してもよかったのですが、追記だと見逃してしまうのではないかと思って、もう一度新規に投稿します。

実は昨日の朝、書いているうちに時間がなくなってしまって、下書きを保存したつもりだったのですが・・・

昨日は地域の発達しょうがいに関わる親の会がある日でした。

日曜の午前中が、お子さんのいるお母さんたちが話が出来る、数少ない時間です。

勿論専業主婦、若しくはフルタイム以外の働き方の人なら平日でも時間が取れるのかもしれませんが(そういう意味でも平日にも会はありますが)

・・・比較的、ボランティアさんも参加しやすい日曜日に、子どもをボランティアさんにお願いして、お母さん達が話をするのです。

ええ、私はお母さんではない上に、発達しょうがいのある子は実の子でもないんですが

(このあたりは海未さんと同じだと思いますが)

行きがかり上?辞められなくなってしまったので、つい行かざるをえないのです(苦笑)

その後、家に戻って、昼の用意をして、その後、義母の家に家族皆で車で行って、帰ってきたのが夜の12時を過ぎていたので。昨日書こうと思っていた事にたどり着けませんでした。

いつも私は、前置きの方が書きたいことよりも長くなってしまう・・・悪い癖です。

さて、私は何を書こうと思っていたのか。


忘れた訳ではないけど、昨日書いたらたぶん内容が変わっていたかもしれません。

事実(歴史的、時系列的な事実)が変わらないとしても、その事による思いが異なってしまうと、同じ物が書けません。

書こうと思っていたことは、この時期になると、いつも同じ風景に圧倒されてしまう、ということでした。

この時期、黄色い花が、群生している風景に気づいたことはありませんか?

たぶん、私たちが子供だった頃、昔はなかったように思います。

セイタカアワダチソウっていうのだそうです。 

私がこの雑草の群生に気づいたのは、最初の子たち、双子を早産で亡くした時のことでした。

二卵性双生児で、男の子と、女の子でした。

私は、二人のお葬式をしたのです。

妻はまだ入院していたように思います。

お葬式といっても、どういう風にしたのか覚えていません。

2人を火葬している間、私は一人でそこにいました。

小さかったので、そんなに長い時間ではなかったと思います。

私はその時、なんにもしなかったし、なんにも考えられなかった。

ただ、覚えているのは、窓の外のセイタカアワダチソウの黄色が、あまりにも強く、あまりにも圧倒的で。その強さが全ての想いを消し去ってしまったかのようで。

その強烈な黄色のおかげで、私は本来の悲しみもそれほど感じずに済んだような気がしたのです。

いつもこの時期、この群生を見るたびに、特に感慨があるとは思いませんが、時間が止まったような気持ちになります。


そして、これを私は、学校のスクーリングで話しました。

それは、ポジティブな事象とネガティブな事象の対比という場面でした。

「楽しい話題を視線をそらして話す」のと「悲しい話題を視線を逸らさずに話す」という実験を行い、そのレポートをするといった、比較的軽い?コミュニケーション術の実験だったのですが、その際、私は話を思いつかず・・・つい、大学で聞いた「1000グラムの赤ちゃん」という詩が私にとってどれほど悲しかったかという事を、相手になってくれた方に話したのです。

そうしたら・・・彼女は泣き出してしまい、私は慌てて謝りました。

50人位が一斉に行った実験で、我々のグループだけが、結果が違ってしまいました。後で教えてくれましたが、彼女も早産を経験されていたのだそうです。

何を言いたかったのかというと、人は結構言わないことがあって、その理由は様々かもしれないけど、多くの場合にはそれを言わないのは自分が言いたくないのと、聞く人が楽しくないと思うのと両方であって、でも場合によってはそれを話すことで共感は単なる楽しいことを超える場合があるのかも?っていうこと。

そういう時、自己開示しないということは場合によっては「罪」なことなのかもしれない。

私の活動の根源はそういう部分なのであって、常に「ネガティブ」なのです。

だから、向社会的な活動を胸を張って喋れる人たちに対して、とても眩しいというか。

セイタカアワダチソウのように、圧倒されてしまった。

これが感想です。

長くて判りにくいですね・・・私の悪い癖です。