悪役の代行:家族の均衡を守るために
中途養育という過酷な現場において、私は自ら「悪役」を買って出た。
妻や義母が、子どもたちに対して「優しい養育者」であり続けられるように。
私がすべての不快な役割、すなわち「叱る」「罰を与える」「規律を強いる」という役割を引き受けたのは、彼女たちが子どもたちを嫌いにならずに済むように、と考えたからだった。
しかし、それは私一人が「影」の部分をすべて背負い、子どもたちからの憎悪や反発の標的になることを意味していた。
私が悪役を代行することで、家庭内のバランスはかろうじて保たれていたはずと、自分自身を慰めた。
妻や義母は私の厳しさに感謝しつつ、子どもたちに寄り添う「光」の側面に留まることができたと思うことで、自身の、現代では許されない、子どもの権利に適さないしつけと称する暴力的、支配的な子育てに君臨していた。
プレグナンツの法則の誤謬:見せかけの成功
心理学に「プレグナンツの法則(簡潔さの法則)」という言葉がある。
不完全な形であっても、脳はそれを「簡潔で安定した形」として認識しようとする傾向のことだ。 当時の我が家は、まさにその誤謬(ごびゅう)の中にあった。
規則正しくラジオ体操をし、九九を唱えながらスクワットをする子どもたちの姿。
個別プレートで静かに食事を摂る食卓。
それを見た周囲の人々は「素晴らしい立て直しだ」「うまくいっている」と賞賛した。
しかし、それは外側から見た「簡潔で安定した形」に過ぎなかった。
その裏側では、バレバレの嘘や改ざんが繰り返され、信頼の土台は1ミリも積み上がっていなかった。
周囲の「よかったね」という笑顔は、私が日々感じていた「いつか何かが決定的にはじけてしまうのではないか」という薄氷を踏むような恐怖を、何ら癒やすものではなかった。
限界点:児相への問いかけ
この「悪役」という役割は、私自身の精神をも摩耗させていった。
自分の「その場主義」や「臨機応変な養育」が通用しない。
誰も助けてくれない。
社会から切り離された密室ではないにせよ、表に出て助けを求めても、誰からも相手にされないという孤立感。
限界を感じて児童相談所に相談した際、返ってきたのは「ご自身で頑張ってください」という無機質な言葉だった。
その時、私はこう問い返した。 「では、私がこの子に痣(あざ)を作れば、支援を考えてもらえますか?」
それは、自分自身の暴力性や、悪役を演じ続けることの限界がすぐそこまで来ているという、悲鳴のような警告だった。
そこまで言わなければ支援の俎上(そじょう)にすら載せてもらえないのが、日本のインフォーマル・ケアの実態だ。
家族の静かなる消耗
「可哀想だから優しくしてあげて」という生易しい次元では、この事態は解決できなかった。
私が悪役を演じ、規律で締め上げることで、かろうじて維持されていた日常。
しかし、その均衡はあまりに脆く、関わる全員を静かに、確実に消耗させていた。
最終的に、子どもたちは再び義母の元へ戻ることになる。
その結末を、私はこの時、まだ受け入れられずにいた。